羽場地区  黒沼 仁氏の思い出くろぬま ひとし

昭和20年(1945年)8月10日 勤労奉仕で真室川飛行場に行く日だ。

朝から晴れて天気が良い。町立金山国民学校 高等科一年生は、奈良間商事のトラックで勤労奉仕に行くことになっていた。午前八時前に奈良間さん宅前に行った。従業員の人々が、トラックを整備中であった。 エンジンのトラブルか。 整備が終わるのを待つ間も 「お国のために勤労奉仕だ。」 という気持ちで待っていた。 みんな 軍国少年だった。

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午前八時頃どこからか飛行機の音が聞こえてきた。空の上を見ていた。 「あっ飛行機だ」というが早いか「近くの民家に避難しろ」という声で、私たちは岸箪笥屋(岸家具店)さんに避難させてもらった。 近くの火の見櫓の半鐘が「カーンカーンカーンカンカンカン」と鳴り出したので 「警戒警報発令だ」 「空襲だぁ、空襲だぁ」 突然大人の人たちが大声を上げる。 半鐘がカンカンカンと早打ちになった。みんな初めて空襲を経験するから震えが止まらない。 飛行機のエンジンの音。爆音を聞きながら過ごす時の長さ。岸さんと野崎さんの家の軒下の間から、真室川飛行場の方角が岸さん宅の窓から見えた。 低空に飛ぶ何十機もの米軍機。初めて聞く爆音。音だけを聞くよりも、米軍機の姿が見えた方が、気持ちが落ち着くような気がした。 米軍機が去るのをじっと待っていた。昼ごろ空から爆音が聞こえなくなったことを確認し、自分の家に帰った。 皆で家族の無事を確認する。ばあさんは畑で作業中で、近くの家に避難していた。 昼食を済ませ昼休み中、午後過ぎのことだった。東の方から飛行機の音が聞こえてきた。二度目の空襲警報が発令された。

  太平洋側の日本の近海の航空母艦から艦載機(グラマン)が大編隊を組んで低空で飛んできた。午前中より数が多く感じた。飛行場の上空を何度も旋回しながら、爆撃と機銃掃射が、飛行場を襲っているようだった。又、金山町の上空にも三機編隊を組んだ飛行機が東の方角の、お寺山の方から、薬師山の方に向かって、道路上空から高度を落とし、みるみる近づいてきて、金山大橋の上を通って行った。 機体に搭乗した、飛行帽を被った操縦士の、にやっとした嘲笑がはっきりと見えた。そのとき突然後方の飛行機から機銃掃射に襲われた。友人の二年生の少年が、自宅に帰るため道路を横断した為に狙われたのであった。銃弾は寺の墓地の方角に落ちて少年は無事だった。 無事な様子を見て、ほっとした。 午後は自分の家の軒下から戦況を見て知る事が出来たが、そのあとのことは、よく覚えていない。 平和の大切さを、身をもって感じた。当日外にも国民義勇隊金山分隊が出動参加していた。地区民の中には爆弾の破片で怪我をされた人もいた。

昭和六年(1931)から始まった戦争の時代が、昭和二十年(1945)八月十五日に終わった。

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金山町の日中・太平洋戦争戦死者数は陸軍軍人二二二名、海軍軍人四二名、軍属一〇名総数二七四名に上っている。

  悪化する戦局の中、郷土出身将兵が困難な戦場に投入されたことを示す。なほ、明治以来、日清戦争の戦死者四名、日露戦争戦死者十四名その他三名である。 町内各地において、忠魂碑の建立、犠牲者の冥福を長く忘れず、祈り続けたい。 又、金山町には平和塔も建立されており、人と人の関係や絆を大切にして、平和な金山町、平和な日本国である様、念願し、七十年前の思い出を記させていただきました。

黒沼 仁  合掌

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